一人暮らしをしていると、不思議な瞬間がある。
スーパーで買い物をしている時。
食堂で定食を食べている時。
味噌汁の湯気を見つめている時。
そんな何気ない瞬間に、ふと母の料理を思い出すことがある。
決して高級な食材を使っていたわけではない。
特別なレシピがあったわけでもない。
それでも、今になって思うと、あの頃の食卓にはお金では買えない安心感があった。
当たり前だった夕食
子どもの頃は、夕方になると自然と夕食が用意されていた。
学校や部活から帰れば、ご飯の炊ける匂いがしていた。
台所から聞こえる包丁の音や、鍋のふたがカタカタと鳴る音。
そのすべてが日常だった。
当時は、それがどれだけありがたいことなのか考えたこともない。
「今日のおかず何?」
そんなことを気軽に聞ける毎日だった。
好き嫌いを言った日もある。
もっと違うものが食べたいと思った日もある。
今思えば、ずいぶん贅沢だった。
一人暮らしで気づく大変さ
一人暮らしを始めると、料理は突然「誰かが作ってくれるもの」ではなくなった。
買い物をする。
献立を考える。
調理する。
洗い物をする。
たった一食でも意外と時間がかかる。
疲れて帰宅した日は、スーパーの惣菜やコンビニのお弁当に助けられることも多い。
もちろん、それも十分おいしい。
でも、ときどき思う。
「あの頃は、毎日これを誰かがやってくれていたんだな。」
そう考えると、母が毎日続けてくれていたことの大きさが少しずつ分かってくる。
思い出す味
母の料理と聞いて、一番最初に思い浮かぶ料理がある人も多いだろう。
カレー。
肉じゃが。
味噌汁。
焼き魚。
卵焼き。
家庭によって違うと思う。
私にとっても、いくつか思い出の味がある。
決して豪華ではない。
どこの家庭にもありそうな料理だ。
それなのに、同じように作ろうとしても、なぜか少し違う。
調味料なのか。
火加減なのか。
それとも、一緒に食べた時間そのものが味になっていたのか。
理由は分からない。
スーパーで立ち止まる
スーパーを歩いていると、昔よく食卓に並んでいた食材を見つけることがある。
その瞬間、子どもの頃の景色が頭に浮かぶ。
食卓。
テレビの音。
家族の会話。
食器の音。
ほんの数秒なのに、記憶は鮮明だ。
食べ物には不思議な力がある。
味だけではなく、時間まで思い出させてくれる。
今だから分かること
子どもの頃は、料理が出てくることを当たり前だと思っていた。
「今日はこれか。」
そんな一言で終わってしまう日もあった。
でも今なら違う。
仕事で疲れていても。
体調が万全でなくても。
毎日食事を用意するのは簡単ではない。
献立を考えるだけでも大変だ。
買い物に行く時間も必要だ。
だからこそ、毎日続けてくれていたことに感謝したくなる。
食事は愛情だった
料理は、お腹を満たすだけではない。
「ちゃんと食べてね。」
「元気でいてね。」
そんな言葉が入っていたような気がする。
当時は気付かなかった。
料理を作る時間も、後片付けも、全部含めて家族を支えてくれていたのだ。
それは大人になった今だから理解できる。
自分で料理をすると見えてくる
最近は簡単な料理を作ることもある。
ご飯を炊いて、味噌汁を作り、焼き魚を焼く。
シンプルな献立でも、それなりに時間がかかる。
完成して食べ始める頃には、少し疲れていることもある。
それでも、自分で作った料理は少しだけ特別に感じる。
そして同時に思う。
「これを毎日続けるのは本当に大変だ。」
母は何年も、何十年も、それを続けていたのだ。
食卓の思い出は消えない
高級レストランの料理もおいしい。
人気店のラーメンも魅力的だ。
でも、人生の中で忘れられない味は、意外と家庭の食卓だったりする。
豪華さではない。
安心して食べられる空気。
何気ない会話。
いつもの席。
それら全部が一緒になって、思い出の味になっている。
まとめ
一人で食事をしていると、ふと母の料理を思い出す日があります。
昔は当たり前だった夕食も、大人になって振り返ると、多くの時間と手間、そして家族を思う気持ちが込められていたことに気づきました。
今ではスーパーの惣菜や外食に助けられる日もあります。
それでも、ときどき思い出す家庭の味は、どんな高級料理にも負けない特別な存在です。
これから先も、食事をするたびに思い出すことがあるでしょう。
そのたびに、何気なく囲んでいたあの食卓が、自分にとってかけがえのない時間だったのだと、静かに感じています。


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