冬になると、なぜか食べたくなるものがある。
肉まんだ。
今ならコンビニへ行けば、一人一個買える。少しお腹が空いていれば、肉まんとあんまんを両方買うことだってできる。
でも、子どもの頃の記憶に残っている肉まんは少し違う。
一個の肉まんを、誰かと半分ずつ食べた。
真ん中から割ると、白い湯気がふわっと出てくる。
半分になった肉まんを受け取って、まだ熱い皮を少しずつ食べる。
たった半分。
それなのに、妙においしかった。
今回は、そんな冬の小さな食の記憶を書いてみたい。
冬になると肉まんが特別に見えた
子どもの頃、冬の食べ物には独特の魅力があった。
焼き芋。
お餅。
みかん。
鍋。
そして肉まん。
寒いところから暖かい場所へ入り、温かいものを食べる。
それだけで幸せだった。
今のように好きなものを好きなタイミングで買う生活ではなかったから、肉まんも毎日食べるものではなかった。
だから目の前に肉まんがあるだけで、
「肉まんだ」
と少しうれしくなった。
高級な食べ物ではない。
でも子どもにとっての「ごちそう」は、値段だけでは決まらない。
普段あまり食べない。
温かい。
おいしい。
その三つだけでも十分だった。
なぜ半分だったのだろう
どうして一個ではなく半分だったのか。
今となっては、はっきり覚えていない。
家族と分けたのかもしれない。
きょうだいと分けたのかもしれない。
一個食べるには少し多かったのかもしれない。
単純に人数分なかったのかもしれない。
理由はもう分からない。
それでも、肉まんを半分に割った場面だけは妙に記憶に残っている。
食べ物の記憶とは不思議だ。
「いつ」「どこで」「誰と」まで正確には覚えていなくても、手触りや温度だけ残っていることがある。
肉まんの場合、僕に残っているのは「半分」という感覚だった。
割った瞬間の湯気
温かい肉まんを両手で持つ。
真ん中から割る。
すると中から湯気が出てくる。
あの瞬間が好きだった。
白い皮の中から肉の具が見える。
外から見ているだけでは分からなかった中身が、一気に現れる。
そして熱い。
すぐには食べられない。
少し冷ます。
「熱い」
と言いながら食べる。
今考えると、ただそれだけのことだ。
でも子どもの頃は、食べる前のこの時間まで楽しかった。
肉より皮が好きだったかもしれない
肉まんというくらいだから主役は中の具なのだろう。
でも子どもの頃の自分は、白い皮もかなり好きだった。
ふわふわしている。
ほんのり甘い。
外側は少し乾いていて、中側は具の水分を吸っている。
場所によって食感が違う。
半分にした肉まんの端から少しずつ食べて、最後に具が多い中心部分を食べる。
そんな食べ方をしていた気がする。
今なら何口かで食べ終わってしまう。
でも昔は、もっとゆっくり食べていた。
半分だから大切に食べた
一個丸ごとなら、
「まだある」
と思える。
でも最初から半分しかない。
だから自然と大切に食べる。
大きくかじれば、すぐなくなってしまう。
少しずつ食べる。
皮を食べる。
具を食べる。
また皮を食べる。
そして残りを見る。
「もうこれだけか」
と思う。
食べ物の価値は、量によっても変わる。
たくさんあるものは無意識に早く食べてしまう。
少ないものは味わおうとする。
子どもの頃の肉まんがおいしかった理由の一つは、半分しかなかったからなのかもしれない。
「大きいほう」が少し気になった
肉まんを手で半分に割れば、完全に同じ大きさにはならない。
少し大きいほう。
少し小さいほう。
子どもなら気になる。
「こっちのほうが大きい」
そんなことを考えたこともあったと思う。
さらに重要なのは、中の具だ。
皮の大きさが同じくらいでも、片方に肉が多く入っているように見えることがある。
すると、
「そっちのほうが多い」
と思う。
今なら笑ってしまうくらい小さな差だ。
でも子どもにとっては重要だった。
それでも半分にできた
面白いのは、それでも一個を分けていたことだ。
一人一個なければ食べない、とはならない。
半分にする。
そして二人で食べる。
一個しかないなら二つにする。
三人なら、もっと小さくしたこともあったかもしれない。
今の自分ならコンビニへ行って人数分買えばいい。
だから「分ける」という発想自体が少なくなった。
欲しければ自分の分を買う。
それは便利だ。
でも、一つのものを分けて食べる時間には、それとは違う良さがあった。
冬の寒さも味の一部だった
肉まんは夏に食べても肉まんだ。
でも、やはり冬が似合う。
外が寒い。
手も冷たい。
そんなときに温かい肉まんを持つ。
手のひらまで温かくなる。
食べると口の中も温かい。
お腹にも温かいものが入っていく。
子どもの頃は、今より寒さを強く感じていたような気がする。
家の中でも寒い場所があった。
廊下に出れば寒い。
朝起きれば寒い。
だから温かい食べ物そのものがうれしかった。
味だけではなく、温度までごちそうだった。
からしは使わなかった
大人になると、肉まんにからしをつける人もいる。
酢醤油などを合わせる地域もある。
でも子どもの頃の自分にとっては、そのままで十分だった。
白い皮。
肉の具。
それだけ。
むしろ余計なものはいらなかった。
子どもの味覚は単純だったのかもしれない。
おいしいか。
おいしくないか。
それだけだった。
だからこそ、その味がそのまま記憶に残っている。
買ってもらった食べ物は特別だった
子どもの頃は、自分で自由に食べ物を買えるわけではなかった。
お金を持っていても少額。
何を食べるかは、基本的に大人が決める。
だから誰かが肉まんを買ってくれたというだけで、今より価値があった。
自分で稼いだお金で好きなものを買える大人になると、この感覚は薄くなる。
今なら肉まん一個を買うのに迷うことは少ない。
でも昔は違った。
「今日は肉まんがある」
それだけで、小さなイベントになった。
今なら一個食べられる
大人になった今なら、肉まん一個くらい普通に食べられる。
二個食べようと思えば食べられる。
高い肉まんを探すことだってできる。
具がたくさん入ったもの。
大きなもの。
有名店のもの。
いろいろ選べる。
それでも、ときどき思い出すのは豪華な肉まんではない。
半分の肉まんだ。
不思議だと思う。
量なら今のほうが多い。
選択肢も今のほうが多い。
でも記憶に残っているのは、昔の小さな半分だ。
「足りない」が思い出を作ることもある
子どもの頃の食の記憶を振り返ると、「少なかったから覚えている」ものが意外とある。
100円を握ってお菓子を選ぶ。
アイスを一本だけ食べる。
ケーキのイチゴを最後まで残す。
肉まんを半分にする。
今なら簡単に追加できる。
でも追加できなかったから、目の前にあるものを大切にした。
これは「昔のほうが良かった」という話ではない。
今の便利な生活はありがたい。
食べたいときに食べられることも幸せだ。
ただ、少し足りないくらいの量が、食べ物を強く記憶に残すこともあるのだと思う。
誰と食べたかが大事だったのかもしれない
肉まんを半分にするには、もう一人いる。
一個を二つに分ける。
片方を自分が持つ。
もう片方を誰かが持つ。
つまり「半分の肉まん」の記憶には、必ず誰かの存在がある。
顔までは鮮明に思い出せなくても、その感覚は残っている。
一人で一個食べる肉まんと、誰かと半分ずつ食べる肉まん。
量なら前者のほうが多い。
でも思い出になるのは後者だったりする。
食事は、食べ物だけで完成しているわけではないのかもしれない。
大人になると分けなくなる
大人になってから、肉まんを誰かと半分にすることはほとんどなくなった。
「肉まん食べる?」
「食べる」
なら二個買う。
それで終わりだ。
合理的だし、けんかにもならない。
でも、半分に割ったときに出てくる湯気を見ることも少なくなった。
どちらが大きいか比べることもない。
「そっちのほうが具が多い」
なんて言うこともない。
便利になると消えていく小さな場面がある。
肉まん一個にも、そんなものがあったのだと思う。
食べ物の値段より記憶の値段
今まで、いろいろなものを食べてきた。
肉料理。
寿司。
焼肉。
レストランの料理。
値段だけなら、昔の肉まんとは比較にならないものもある。
でも、高かった料理ほど長く覚えているわけではない。
何を食べたのか思い出せない店もある。
一方で、何十年も前に食べた半分の肉まんは残っている。
食の記憶に値札はつけられない。
安い食べ物でも、そのときの時間と結びつけば何十年も残る。
SoloEatで昔の食べ物を書いていると、そんなことをよく感じる。
もう一度半分にしてみたら
今度肉まんを買ったら、あえて半分に割ってみてもいいかもしれない。
一個買う。
温かいうちに割る。
湯気を見る。
半分だけ食べる。
それだけで昔と同じになるわけではない。
子どもには戻れない。
当時の冬にも戻れない。
それでも、何か思い出すかもしれない。
皮の匂い。
手の温かさ。
中から出る湯気。
「熱い」と言いながら食べたこと。
そして、もう半分を持っていた誰かのこと。
半分だったから、今も覚えている
もし子どもの頃、毎回一人で肉まんを一個ずつ食べていたら。
ここまで記憶に残っていなかったかもしれない。
半分だった。
少し物足りなかった。
だから大事に食べた。
そして誰かと分けた。
その全部が合わさって、ただの肉まんが思い出になった。
冬の寒い日。
白い肉まんを二つに割る。
ふわっと湯気が出る。
少し大きいほうと、小さいほうができる。
どちらかを受け取る。
両手で持つ。
まだ熱い。
少しずつ食べる。
最後の一口がなくなる。
もっと食べたい気もする。
でも、それで終わり。
あの頃は、半分でも十分うれしかった。
大人になった今なら、一個でも二個でも買える。
それでも冬になって肉まんを見ると、思い出すのは一個丸ごとの肉まんではない。
誰かと半分ずつ食べた、あの小さな肉まんだ。
たぶん食べ物の思い出とは、満腹になった記録ではない。
そのとき誰といて、どんな気持ちで一口を食べたのか。
そんな何でもない瞬間が、何十年たっても心のどこかに残っているのだと思う。


コメント