子どもの頃、スイカ一玉がものすごく大きく見えた。
今、大人になってスーパーでスイカを見ても、
「大きいな」
とは思う。
でも、あの頃に感じていた大きさとは少し違う。
冷蔵庫から出てきた丸いスイカ。
包丁を入れる。
赤い中身が現れる。
家族で切り分けて食べる。
一切れだって、子どもの自分には十分大きかった。
夏になると当たり前のようにあった風景なのに、何十年も経った今になって思い出す。
今回は、そんな子どもの頃のスイカの記憶を書いてみたい。
スイカ一玉が「巨大な食べ物」だった
子どもと大人では、同じものを見ても大きさの感じ方が違う。
単純に自分の体が小さいからだ。
大人が両手で持つスイカを、小さな子どもが持とうとすればかなり重い。
抱えるようにしなければ持てない。
下手をすれば落としてしまう。
だから僕にとって、スイカは果物というより、
「夏になると家に現れる巨大な食べ物」
のような存在だった。
リンゴなら一人で一個食べられる。
ミカンも一人分だ。
バナナも一本ずつ分かれている。
でもスイカは違う。
一人ではとても食べ切れない。
家族みんなで食べることが前提だった。
丸いままのスイカには特別感があった
今ならスーパーでカットされたスイカを買うことも多い。
半分。
4分の1。
さらに小さく切ったパック。
一人で食べるなら、そのほうが便利だ。
冷蔵庫にも入れやすい。
食べ切ることもできる。
でも子どもの頃の記憶に強く残っているのは、やはり丸いスイカだ。
緑色の皮。
黒っぽい縞模様。
中身が見えない。
それを包丁で切る。
この瞬間がちょっとしたイベントだった。
包丁が入って、パカッと二つに分かれる。
すると真っ赤な中身が現れる。
黒い種が並んでいる。
ただ果物を切っただけなのに、子どもには面白かった。
冷蔵庫にスイカがあるだけで気になった
スイカを買ってきても、すぐに全部食べるとは限らない。
冷やしてから食べる。
あるいは切った残りを冷蔵庫に入れておく。
そうなると、冷蔵庫を開けるたびにスイカが目に入る。
「あれ、いつ食べるんだろう」
そんなことを考える。
今なら自分で買ったものなら好きな時間に食べればいい。
でも子どもの頃は、家にある食べ物が全部自分の自由になるわけではない。
夕飯の後なのか。
午後のおやつなのか。
家族がそろってからなのか。
だから待つ時間まで含めてスイカだった。
大きな三角形を手で持って食べた
僕の中のスイカは、やはり三角形だ。
皮を残したまま大きく切る。
それを両手で持つ。
端からかじっていく。
果汁が出る。
口の周りが濡れる。
種が出てくる。
きれいに食べようとしても、なかなかきれいには食べられない。
今なら一口サイズに切って、フォークで食べることもできる。
そのほうが圧倒的に食べやすい。
でも、スイカらしさという意味では、大きな一切れを手で持って食べるほうが記憶に残る。
食べやすさと、食べる楽しさは同じではないのかもしれない。
種をどうするかもスイカの一部だった
昔のスイカの記憶には、種もある。
赤い果肉を食べていると黒い種が出てくる。
口から出す。
また食べる。
また種がある。
子どもの頃は、それも当たり前だった。
種が面倒だからスイカが嫌いというより、
「スイカとはこういう食べ物」
として受け入れていたように思う。
便利さだけを考えれば、種が少ないほうがいい。
皮もなく、一口サイズになっているほうがいい。
それでも記憶に残っているのは、不便だった昔の食べ方だったりする。
夏そのものを食べていた気がする
スイカを思い出すと、味だけではなく周りの風景まで一緒に出てくる。
暑さ。
強い日差し。
セミの声。
扇風機。
夏休み。
冷たい麦茶。
そういうものとスイカがセットになっている。
今では冷房の効いた部屋で、季節に関係なくさまざまな食べ物を楽しめる。
それは便利だ。
でも昔は、もっと食べ物と季節が強く結びついていたような気がする。
スイカを食べる。
それだけで、
「夏だな」
と感じられた。
だから子どもの頃は、スイカの味だけではなく夏そのものを食べていたのかもしれない。
一人では食べ切れないことに意味があった
今の僕がスイカ一玉を買ったらどうするだろう。
一人で食べるには大きい。
冷蔵庫の場所も取る。
切るのも面倒だ。
食べ切るまで何日もかかる。
だからスーパーならカットスイカを選ぶ可能性が高い。
合理的に考えれば、それでいい。
でも子どもの頃は、一人で食べ切れないことが当たり前だった。
家族の誰かが切る。
みんなに配る。
同じスイカを何人かで食べる。
「甘い」
「こっちのほうが甘い」
そんなことを言う。
つまり一玉のスイカは、一人分の商品ではなかった。
家族で分ける食べ物だった。
そこが今の一人飯との大きな違いなのかもしれない。
大人になるとスイカが小さくなった
もちろん、本当にスイカが小さくなったという意味ではない。
自分が大きくなったのだ。
子どもの頃は持ち上げるのも大変だったものを、大人なら普通に持てる。
大きな一切れだったはずなのに、今ならそれほど驚かない。
冷蔵庫も大きく感じない。
包丁も怖くない。
自分で切れる。
自分で買える。
自分で好きなだけ食べられる。
自由になった。
でも、その代わりに失った感覚もある。
「うわ、でかい」
という単純な驚きだ。
子どもの世界では、いろいろなものが大きかった。
家も大きい。
学校も大きい。
大人も大きい。
そしてスイカも大きかった。
値段を知らずに食べていた
子どもの頃は、スイカの値段なんてほとんど気にしていなかった。
誰が買ったのか。
いくらだったのか。
高かったのか。
そんなことを考えずに食べる。
大人になると違う。
スーパーで値札を見る。
「一玉だとこのくらいするのか」
「一人ならカットされたものでいいかな」
と考える。
食べ物を見るときに、値段、量、保存期間まで考えるようになる。
これは生活する上では必要なことだ。
ただ、値段を知らず、
「スイカだ!」
だけで喜べた時代は、ある意味ぜいたくだったのかもしれない。
今、一人でスイカを食べるなら
もし今、一人でスイカを食べるなら、たぶん一玉は買わない。
食べられる量だけ買う。
冷蔵庫から出す。
皿に置く。
静かに食べる。
それでも一口食べれば、昔のことを思い出すかもしれない。
食べ物には不思議なところがある。
写真を見なくても、昔住んでいた場所へ行かなくても、味や匂いだけで昔の風景が戻ってくることがある。
スイカもその一つだ。
あのスイカは本当に大きかったのか
今になって考える。
子どもの頃に見たスイカは、本当に特別大きかったのだろうか。
たぶん違う。
普通のスイカだったと思う。
大きかったのはスイカではなく、僕から見た世界そのものだったのだろう。
一玉のスイカに驚く。
切っただけでワクワクする。
冷えるまで待つ。
家族で分ける。
種を出しながら食べる。
そんな普通の出来事が、大きな出来事に感じられた。
大人になった今なら、お金を払えば自分でスイカを買える。
好きな時間に食べられる。
それなのに、子どもの頃の一切れのほうが強く記憶に残っている。
食べ物のおいしさは、値段や量だけでは決まらないのだと思う。
誰と食べたのか。
どこで食べたのか。
何歳だったのか。
その日の暑さ。
そのときの自分の気持ち。
全部が一緒になって「味の記憶」になる。
子どもの頃、スイカ一玉が大きく感じた。
今では普通の大きさに見える。
でも記憶の中にあるあのスイカだけは、今でも大きい。
夏になると、ときどき思い出す。
あの大きな緑色のスイカを。
そして、家族で切り分けて食べていた、昔の夏を。


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