その日の夜、なぜか顔を隠したくなった。
理由ははっきりしていない。
ただ、誰にも見られたくなかった。
誰にも触れられたくなかった。
部屋にひとりでいるのに“覆面”をつけたのは、
もしかしたら自分自身の視線から逃げたかったのかもしれない。
コンビニ袋の中には、吉野家の牛丼。
温めると、あの独特の香りがふわっと立ち上がる。
普段ならそれだけで少し元気が出るのに、
今日だけはなぜか重く感じた。
机の上に牛丼を置いて、覆面をしたまま箸を取る。
視界の端が少し狭くて、湯気が頬に当たる。
顔を隠して食べる牛丼は、いつもとまったく違う味がした。
ひと口食べると、薄い甘さとタレのしょっぱさが舌に広がる。
でも、心のほうには何も届かない。
覆面の布が呼吸に合わせてわずかに揺れるたび、
自分が自分から離れていくような感覚があった。
「なんで覆面なんかしてるんだろうな。」
そう思いながら、2口目をかき込む。
でも、答えは簡単だった。
今日の自分をそのまま見たくなかった。
表情も、疲れた目も、何もかも。
ただ、いったん遮断したかったのだ。
牛丼の熱さと、覆面の中の息苦しさが混ざって、
不思議と“安心”に近いものを生んでいた。
誰にも見られない場所で、
誰にも触れられない状態で、
ひとりの自分だけが残る。
部屋は静かだった。
窓の外から遠く車の音が聞こえるだけで、
テレビもつけていない。
スプーンがタレに浸って、
小さく「ちゃぷ」と音を立てるたび、
自分がまだ“ここにいる”と確認できる気がした。
半分ほど食べたところで、
ふと覆面の中が少しだけ湿っていることに気づいた。
泣いているつもりはなかった。
けれど、心が限界まで膨らんでいると、
涙って理由もなく勝手に出てくる。
覆面が涙を吸って、少し重くなる。
視界が曇って、牛丼がぼやけて見える。
でも、それでも箸は止まらなかった。
「この牛丼さえ食べ終われば、今日も終わる。」
そんな気持ちで、最後の一口まで流し込んだ。
食べ終わった後、
覆面を外すかどうかしばらく迷った。
外した瞬間、
今日の自分と向き合わないといけない気がしたからだ。
でも勇気を出して、そっと覆面を外す。
そこにいたのは、ただ疲れた普通の自分だった。
思っていたほど酷い顔ではなくて、
むしろ少しだけ優しい顔に見えた。
「なんだ、ちゃんと生きてるじゃん。」
小さくつぶやいて、
牛丼の空き容器を片付けた。
覆面をして食べた吉野家の牛丼は、
特別な味ではなかったけれど、
あの夜だけは必要な“ひとりの儀式”だった。
人間には、
誰にも見られたくない夜がある。
自分を守るために顔を隠す夜がある。
そして、そのたびに少しだけ強くなる。
あの覆面の夜も、
きっとそのひとつなんだと思う。


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