こたつでみかんを食べ続けた冬休み

Solo Home Meals(家でひとりごはん)

冬になると思い出すものがある。

雪でもない。

クリスマスでもない。

お正月のおせちでもない。

こたつと、みかんだ。

子どもの頃の冬休み。

こたつに入ってテレビを見ながら、みかんを食べる。

一個食べる。

少しすると、また一個。

気がつけば目の前には、みかんの皮がいくつも積み重なっている。

「何個食べたんだろう」

そんなことを考えながら、また一個取る。

今思えば、特別な料理ではない。

高級なお菓子でもない。

ただのみかんだ。

それなのに、冬休みの記憶を思い出すと、こたつの上に置かれたみかんが浮かんでくる。

今回は、そんな何でもなかった冬の日のことを書いてみたい。

冬休みになると、こたつが生活の中心だった

子どもの頃、冬の家の中で一番居心地がよかった場所は、たぶんこたつだった。

外は寒い。

朝起きても寒い。

廊下も寒い。

布団から出るのも嫌になる。

そんな中、こたつに足を入れる。

温かい。

一度入ると出たくなくなる。

テレビを見る。

漫画を読む。

宿題をする。

お菓子を食べる。

昼寝までしてしまう。

冬休みになると、いろいろなことをこたつの周りでやっていた気がする。

そして、そこに自然と置かれていたのがみかんだった。

みかんは「取りに行かなくていいおやつ」だった

こたつとみかんの組み合わせはよくできている。

みかんは包丁を使わなくていい。

皿もいらない。

皮をむけばすぐ食べられる。

だから、こたつから出なくてもいい。

これが重要だった。

こたつで温まっていると、

「何か食べたい」

と思っても台所へ行くのが面倒になる。

寒い場所へ出たくない。

でも、こたつの上にみかんがある。

手を伸ばす。

一個取る。

皮をむく。

食べる。

全部こたつから出ずにできる。

子どもの自分にとって、これ以上便利なおやつはなかったのかもしれない。

一個で終わらない

みかんの怖いところは、一個で終わらないことだ。

一個食べる。

甘い。

少し酸っぱい。

水分もある。

食べ終わる。

それほどお腹いっぱいにはならない。

だから、

「もう一個くらいいいか」

となる。

二個目を食べる。

テレビを見る。

しばらくすると、また手が伸びる。

三個目。

そのうち何個食べたのか分からなくなる。

ポテトチップスなら袋が空になれば終わりだ。

アイスなら一本食べれば区切りがつく。

でもみかんは違う。

一個ずつ独立している。

だから毎回、

「これで最後」

と思える。

そして、その「最後」が何回もやってくる。

皮だけがどんどん増えていく

こたつの上には、食べ終わったみかんの皮が残る。

一個。

二個。

三個。

きれいに花のようにむくこともあった。

細長くつなげてむこうとしたこともある。

途中で切れる。

また挑戦する。

今ならすぐゴミ箱へ捨てるかもしれない。

でも子どもの頃は、しばらくそのままになっていた。

みかんの皮を見ると、

「こんなに食べたのか」

と分かる。

ある意味、食べた数の記録だった。

甘いみかんを探すのも楽しかった

箱や袋にたくさん入っているみかん。

全部が同じ味ではない。

すごく甘いものがある。

少し酸っぱいものもある。

皮がむきやすいもの。

皮が固いもの。

大きいもの。

小さいもの。

だから食べる前に選ぶ。

「これは甘そうだ」

子どもなりの基準があった。

色を見る。

形を見る。

皮を触る。

もちろん、それで本当に甘さが分かったのかは分からない。

でも選ぶところから、すでに楽しみは始まっていた。

酸っぱいみかんを引いたとき

期待して皮をむく。

一房食べる。

酸っぱい。

そんなみかんもあった。

今なら糖度の高いブランドみかんを買うこともできる。

でも昔は、同じ袋の中でも味に違いがあったように記憶している。

そして不思議なことに、酸っぱくても捨てない。

「酸っぱいな」

と思いながら最後まで食べる。

すると次の一個が甘かったりする。

その瞬間、

「これは当たりだ」

と思う。

みかんを食べるだけなのに、ちょっとしたくじ引きのようだった。

白い筋を取るか、そのまま食べるか

みかんをむくと、白い筋がついている。

子どもの頃、それを一生懸命取ったことがある。

一本ずつ取る。

きれいにする。

そして食べる。

でも面倒になって、そのまま食べることもある。

家族によっても違ったかもしれない。

きれいに取る人。

全然気にしない人。

薄皮まで丁寧にむく人。

みかん一個でも食べ方には個性がある。

今考えると、そんな小さな違いまで冬の食卓の一部だった。

テレビとみかんはセットだった

冬休みはテレビを見る時間も長かった。

朝からテレビ。

昼もテレビ。

夜もテレビ。

今のようにスマホも動画配信もなかった時代、テレビの存在は大きかった。

家族で同じ番組を見る。

こたつに入る。

そしてみかんを食べる。

テレビの内容そのものは、もうほとんど覚えていない。

でも、

こたつに入ってテレビを見ながらみかんを食べていた

という場面は覚えている。

不思議だ。

番組より、その周りの風景のほうが記憶に残っている。

お正月になると時間がゆっくり流れた

冬休みの中でも、お正月は特別だった。

学校へ行かなくていい。

朝から家にいる。

外も静か。

大人たちもいつもとは少し違う。

時間の流れがゆっくりしていたように感じる。

こたつに入り、みかんを食べる。

時計を見る。

まだ昼。

またテレビを見る。

眠くなる。

少し横になる。

目が覚める。

またみかんを食べる。

今なら「何もしなかった一日」と思うかもしれない。

でも当時は、それで十分だった。

こたつから出るには覚悟が必要だった

問題はトイレだ。

どれだけこたつが快適でも、いつか出なければならない。

足を出す。

寒い。

立ち上がる。

さらに寒い。

急いで用事を済ませる。

そして戻ってくる。

こたつに足を入れた瞬間、

「ああ、温かい」

となる。

あの感覚も冬ならではだった。

冷暖房が進歩した今では、家の中全体を暖かくすることもできる。

でも昔は、暖かい場所と寒い場所の差がもっとはっきりしていた気がする。

だからこたつから出たくなかったのだろう。

みかんの箱が少しずつ減っていく

冬になると、みかんを箱で買う家庭も多かった。

最初はたくさん入っている。

「こんなに食べ切れるのかな」

と思う。

でも家族みんなで食べていると、少しずつ減る。

箱の底が見えてくる。

最後の数個になる。

すると少し寂しい。

あれだけ何気なく食べていたのに、なくなりそうになると惜しくなる。

食べ物とは不思議なものだ。

たくさんあるとありがたみを忘れる。

少なくなると急に大切に見える。

傷んだみかんを見つけることもあった

箱で保存していると、傷んでしまうみかんもあった。

一個傷むと周りにも影響するから、ときどき確認する。

今思えば、それも冬の光景だった。

きれいなみかんだけではない。

少し柔らかくなったもの。

形の悪いもの。

傷のあるもの。

それでも普通に食べる。

スーパーで一個一個きれいに並んだ果物を見る今とは、少し違う感覚だった。

大人になってもみかんは同じなのに

今でもみかんは売っている。

冬になればスーパーに並ぶ。

買おうと思えばいつでも買える。

味だって、昔より甘くておいしいものがたくさんあるのかもしれない。

でも、子どもの頃と同じ気持ちにはならない。

なぜだろう。

みかんが変わったわけではない。

変わったのは、自分の生活だ。

冬休みを何日も家で過ごすことはなくなった。

学校の宿題もない。

家族みんなでこたつを囲む時間も減った。

テレビの見方も変わった。

みかんの味と一緒に記憶していた「時間」がなくなったのだと思う。

高級な果物ではないからこそ覚えている

人生の中では、もっと高価なものも食べてきた。

レストランの料理。

高級なお菓子。

珍しい果物。

それでも何十年たって思い出すのは、こたつの上のみかんだったりする。

値段ではない。

特別だったからでもない。

むしろ逆だ。

あまりにも普通だった。

毎年冬になればそこにあった。

だから自分の記憶の中に深く入り込んでいる。

食べ物の思い出とは、そういうものなのかもしれない。

何個食べたかなんて覚えていない

あの冬休みに、みかんを何個食べたのだろう。

一日3個だったのか。

5個だったのか。

もっと食べていた日もあったのか。

もちろん覚えていない。

何年の冬だったかさえ、はっきりしない。

でも場面は浮かぶ。

こたつ。

テレビ。

みかん。

皮。

外の寒さ。

家の中の暖かさ。

何でもない風景だ。

写真にも残していない。

当時は、残す必要があるとも思っていなかった。

普通の日ほど後から懐かしくなる

子どもの頃、

「今日のこたつでみかんを食べている時間を、大人になったら懐かしく思うぞ」

なんて考えなかった。

ただ食べていただけだ。

冬休みだから家にいただけ。

テレビを見ていただけ。

それが何十年もたつと、一つの思い出になる。

これは少し不思議だ。

旅行やイベントのような特別な日は、最初から思い出になると分かっている。

でも、本当に懐かしくなるのは、案外こういう普通の日なのかもしれない。

また、こたつでみかんを食べてみたい

今、同じことを再現することはできる。

こたつを用意する。

みかんを買う。

テレビをつける。

そして何個か食べる。

形だけなら簡単だ。

でも、あの冬休みそのものには戻れない。

だからこそ記憶として残っているのだと思う。

子どもの頃の冬休み。

こたつから出たくなくて、手を伸ばしてみかんを取る。

一個食べる。

また一個。

目の前には皮が増えていく。

テレビから誰かの笑い声が聞こえる。

外は寒い。

でも、こたつの中は温かい。

何か大きな出来事があったわけではない。

それでも今思えば、ずいぶん贅沢な時間だった。

暖かい場所があって、みかんがあって、明日も学校へ行かなくていい。

それだけで満足できた。

冬になるとみかんを見て、ふと思い出す。

あの頃の自分は、今日が特別な日だとは知らなかった。

ただ、こたつに入ってみかんを食べ続けていた。

そして、その何でもなかった冬休みが、今では忘れたくない冬の記憶になっている。

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