沼田の親戚の家で5歳の私は、人見知りでうどんが食べられなかった日

Solo Home Meals(家でひとりごはん)

群馬県沼田市。親戚の家に行くと、みんながワイワイと話しながら鍋を囲んでいたのさ。
私はまだ5歳で、人見知りの性格。あの頃の私は、大人たちの大きな声と笑いに圧倒されていた。
そしてその日の昼食は、鍋から湯気を立てて出てきた「うどん」だった。

しかし、私は緊張しすぎて一口も食べられなかった。
テーブルの端っこで、箸を持ったまま固まり、目の前のツヤツヤした麺を見ているだけ。
親戚のおばさんが「いっぱい食べな〜」と優しく声をかけてくれるのに、喉に何も通らなかった。

「人見知りって、こういう感覚だったよな」と今なら笑える。
家では普通に食べるのに、知らない家だと味もわからないほど緊張する。
匂いも湯気も、今でも思い出せるくらい鮮明だ。

大人たちが楽しそうに話している横で、私はただ座っていた。
誰にも怒られなかったけれど、どこか申し訳なくて、胸の奥がギュッとなっていた。
今振り返ると「子どもなりに必死だったんだ」と思う。

でも、その経験が今の私に繋がっている。
「人見知りでもいい。ゆっくり慣れればいいのだ」
そう言ってあげたい過去の自分がいる。

大人になり、今では一人でラーメン屋にも定食屋にも入れるようになった。
それどころか、ひとり飯を楽しんでレビュー記事を書くまでになった。
あの頃の私は想像もしなかったと思う。

沼田のうどんは食べられなかったけれど、あの体験は私の中で温かい記憶として残っている。
食べられなかった悔しさと、家族の優しさと、湯気の向こうの笑顔。
「食」には思い出が詰まっている。

もしかすると、あの日のうどんがなかったら私は今、食の記録をブログで綴っていないかもしれない。
美味しい・まずいだけじゃなく、「どんな気持ちで食べたか」まで含めて料理だ。

成長した今、もしまたあの親戚の家に行けたなら、
こんどは暖かいうどんをすすって「うまいね」と笑いたい。
小さな5歳の私が食べられなかった分まで、しっかり味わうために。

沼田の風、冬の縁側、湯気の立つ鍋。
あの日の記憶は、食というテーマと共に、今の私に息づいている。

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