母が20歳くらいの頃、豚肉を食べすぎて、それ以来ずっと豚肉が苦手になった——。
その話を聞いたのは、私が子どもの頃だ。夕食の献立に豚の生姜焼きが出ない理由を尋ねたとき、母は少し笑いながら、でもどこか遠くを見るように話してくれた。「あの時ね、若かったから調子に乗ってすごく食べちゃったのよ。それから匂いだけで無理になって…」と。
食べすぎて嫌いになる。
不思議だけど、確かにある。
母が20歳の頃と言えば、働き始めて間もない時期。
まだ食べる量で若さを証明できた時代だ。友人たちと外食し、安くて量のある定食屋に入り、勢いで追加の皿を頼んだのかもしれない。
当時の豚肉は、今のように脂の処理も丁寧ではなく、においも強かった。食べすぎれば胃もたれし、体が拒否反応を覚える。「もう二度と食べたくない」と思うほどの体験だったのだろう。
食べ物の好き嫌いは、理屈より“記憶”が決める。
特に、体調と結びついた食の記憶は根強い。
そしてそれは、本人の意思ではなく、身体が覚えてしまうものだ。
母の話を聞いたとき、私は「そんな簡単に嫌いになる?」と思った。
でも大人になり、ソロ飯を続ける中で気づいた。
ひとりで食べる時間が増えると、食に対して敏感になる。
味、におい、量、食後の感覚。
どれも体にストレートに返ってくる。
だからこそ不快な記憶は強烈に残る。
そして母の豚肉嫌いは、家族の食卓にも影響を与えた。
我が家のメニューは自然と鶏肉中心になり、豚肉の香りがする料理はほとんど並ばなかった。
でもそれは「嫌いだから」ではなく、「好きな人に無理をさせたくない」という母の優しさでもあったのだと思う。
興味深いのは、母が豚肉を嫌いになっても、食の楽しみは失われなかったこと。
むしろ母は、好きなものを大切にするようになった。
鶏の唐揚げ、塩サバ、野菜炒め。
“無理に広げるより、好きなものを深く味わう”という食べ方になっていった。
その姿は、SoloEatのテーマにも通じる。
他人と合わせる食事もいい。
でも、ひとりで食べる時間は「本当に自分の好き」を選べる自由な時間だ。
豚肉を嫌いになった母は、一見すると選択肢を狭めたように見える。
でも実際は、
“自分に合う食べ方を知った”
というだけなのかもしれない。
食の失敗も、食の事故も、時に人生を変える。
それが嫌いという形で残っても、その人の食生活は続いていく。
母の豚肉嫌いは、私にとって「食は記憶でできている」という大事な教訓になった。
今でも私はひとりでご飯を食べるとき、自分の体が何を求めているのか耳を澄ます。
食べすぎれば翌日嫌いになるかもしれない。
だけど無理をしなければ、“好き”はずっと残っていく。
母の若き日の失敗談は、
ただのエピソードじゃなく、
私のソロ飯哲学のルーツなのだと思う。


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