【思い出飯】3歳の僕は親戚の家でご飯を遠慮していた|人見知りと一粒のみかんの記憶|SoloEat

Solo Home Meals(家でひとりごはん)

今でもふとよみがえる、小さな自分の姿がある。
3歳の頃、親戚の家へ行くと、僕は必ずと言っていいほど人見知りしていた。
みんなは笑って話しているのに、僕だけはテレビの前で正座したり、母の袖を握って隠れたり。
ご飯の時間になって「食べなさい」と言われても、なぜか小さな心は縮こまって、箸を伸ばせなかった。

大人になった今ならわかる。
あれは遠慮というより、**「自分の場所を見つけられない不安」**だったんだと思う。


■ 親戚のテーブルは、子どもには少しまぶしかった

あの家はいつも煮物の匂いがした。
甘辛く煮た椎茸、こんにゃく、人参。
醤油と砂糖が混ざった、しっとりした和の香り。
キッチンから聞こえる包丁の音と、湯気の立つ味噌汁。
今思い出すと、あれはたぶん冬の集まりだった。

親戚のおばさんが「○○ちゃん、これ食べる?」と皿を差し出す。
優しい声なのに、僕は目を合わせられず、首を横に振った。
本当はお腹がすいていた。
けれど、知らない空気の中で「欲しい」と言う勇気がなかった。


■ 目の前には唐揚げ、卵焼き、ポテトサラダ

あの頃の食卓はキラキラして見えた。
唐揚げは黄金色で、卵焼きはふわふわで、ポテトサラダにはリンゴが入っていた。
僕は母の後ろに隠れながら、その三品をじっと見ていた。
「これ食べたい」と喉元まで出ていたのに、声にならない。

親戚が笑って「恥ずかしがり屋だねぇ」と言うと、部屋が少しざわつく。
その瞬間、僕の食欲はしぼみ、テーブルとの距離がさらに遠くなる。
小さな僕にとって、ご飯はただの食事じゃなく、人間関係の試練だったのだ。


■ でも、1つだけ手を伸ばせたものがある

覚えているのは、小皿にあったみかん。
皮がむいてあって、ツヤツヤしていて、小さな僕にも食べやすかった。
一粒だけつまんで口に入れたとき、甘さと酸味が弾けた。
そのみかん一粒が、僕の緊張した世界に少しだけ光を差した。

そこから少しずつ、卵焼き、ポテトサラダ…と挑戦できるようになった。
小さな安心が積み重なり、ご飯を食べることが「怖くない」に変わっていった。


■ SoloEat的に言うと

「ひとりで食べる」ことだけがソロ飯じゃない。
「食べたいのに食べられない」「空気を読んで遠慮してしまう」
そんな経験もまた、ひとり飯の原点だと思う。

3歳の僕は、人の視線や空気の温度に敏感だった。
でもその遠慮の時間があったから、今の僕は自分のペースで食べる心地よさを知っている。

食べるって、本当はコミュニケーションなんだ。
でも無理に合わせなくていい。
自分のタイミングで、一粒のみかんから始めればいい。

あの日の僕に声をかけるなら、こう言うだろう。

「遠慮してもいい。でも、一口だけ食べたら世界が少し優しくなるよ」

そして今の僕は、あの時の自分に代わって、堂々と唐揚げを頬張る。
人見知りの小さな時間も含めて、それが僕の食の物語なのだ。

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