5歳のころ、親戚の家に行くと、決まって秋刀魚を焼いてくれるおばあさんがいた。
「今日は秋刀魚だからね」
そう言われた記憶はない。ただ、行くと、秋刀魚の匂いがしていた。
台所というより、生活の中心に近い場所で、
網の上に乗せられた秋刀魚が、じゅうじゅうと音を立てていた。
皮がはじけ、脂が落ち、煙が少し立ち上る。
今思えば、あれは完全に“大人の匂い”だった。
5歳の自分にとって、秋刀魚は少し大きくて、少し苦い食べ物だった。
骨も多いし、きれいに食べるのは難しい。
それでも、おばあさんは何も言わず、
ただ黙って、焼けた秋刀魚を皿にのせてくれた。
大根おろしが添えられていたかどうかは覚えていない。
醤油をかけたかどうかも、正直あいまいだ。
でも、焼きたての秋刀魚を箸でほぐしたとき、
中から白い身が現れた瞬間のことは、なぜか覚えている。
一口食べると、少ししょっぱくて、少し苦くて、
でも、不思議と嫌じゃなかった。
脂の多い部分は、口の中でじわっと広がり、
子どもながらに「大人の食べ物を食べている」気がした。
おばあさんは、食べ方を細かく教えなかった。
骨を残しても怒らないし、
きれいに食べなさいとも言わない。
ただ、秋刀魚を焼いて、出す。それだけだった。
今思うと、あれは“しつけ”ではなく、
信頼だったのかもしれない。
季節になると、秋刀魚が店に並ぶ。
値段が高い年も、細くなった年もある。
それでも、秋刀魚を見ると、
なぜか一瞬、気持ちが静かになる。
高級な魚じゃない。
ごちそうでもない。
でも、あの頃のおばあさんが焼いてくれた秋刀魚は、
今でも自分の中で、特別な食べ物だ。
ひとりで秋刀魚を焼くとき、
つい、火を強くしすぎたり、焼きすぎたりする。
それでも、箸を入れて白い身を見ると、
5歳の自分が、少しだけ戻ってくる。
あの秋刀魚は、
味よりも、言葉よりも、
「ちゃんと生きていけるよ」と
静かに伝えてくれていた気がする。
SoloEatは、ひとりで食べる記録だけじゃない。
こういう、誰かに作ってもらった記憶の食も、
確かに、今の自分を支えている。


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