羊羹は羊羹だ。
自分で買って食べても甘いし、お茶と一緒に食べればおいしい。
ところが以前、彼女から羊羹をもらったことがある。
それを一人で食べたとき、
「なんだか、いつもよりおいしいな」
と思った。
もちろん、もともとおいしい羊羹だったからだろう。
でも、それだけだったのだろうか。
もし同じ羊羹を自分で買っていたら、同じように感じただろうか。
たぶん少し違ったと思う。
今回は羊羹そのもののレビューではない。
「誰からもらったか」で食べ物のおいしさは変わるのか。
一人で羊羹を食べながら感じたことを書いてみたい。
彼女から羊羹をもらった
彼女から羊羹をもらった。
たったそれだけの出来事と言えば、それまでだ。
ものすごく高価なプレゼントをもらったわけではない。
豪華なレストランへ連れて行ってもらったわけでもない。
羊羹だ。
しかし私にとっては、その羊羹が妙に印象に残った。
自分でコンビニへ行って買ったお菓子とは違う。
スーパーで、
「今日は甘いものでも食べるか」
と思って買ったものとも違う。
彼女が自分のために渡してくれた。
その情報が一つ加わっている。
食べ物そのものは目の前にある羊羹なのに、そこへ人との記憶までくっついている。
一人で食べたのに「一人飯」ではないような感じ
実際に羊羹を食べたとき、隣に彼女がいたわけではない。
私は一人だった。
羊羹を切る。
皿に置く。
お茶を用意する。
そして一人で食べる。
形式だけを見れば完全なSoloEatだ。
ところが不思議なことに、あまり孤独な感じがしなかった。
羊羹を見ると、
「これ、彼女からもらったんだよな」
と思う。
食べながら、もらったときのことを思い出す。
彼女の表情まで思い出す。
すると一人で食べているのに、食卓に少しだけ誰かの存在が残っているような感覚になる。
これは自分で買った食べ物では、なかなか起こらない。
味そのものは変わっていないはず
冷静に考えれば、誰からもらっても羊羹の成分は変わらない。
砂糖が増えるわけではない。
小豆が特別なものに変化するわけでもない。
彼女から渡された瞬間に、羊羹の物理的な味が変化するはずもない。
それでも私は、
「いつもよりおいしい」
と感じた。
なぜだろう。
食べ物のおいしさは、舌だけで決まっているわけではないからかもしれない。
香り。
見た目。
空腹。
体調。
場所。
そして記憶。
いろいろなものが重なって「おいしい」という感覚になる。
そこへ、
「好きな人からもらった」
という感情が加わった。
だから同じ甘さでも、少し特別に感じたのだと思う。
「自分のために選んでくれた」がうれしい
プレゼントでもらった食べ物には、商品そのものとは別の価値がある。
相手が自分のことを考えた時間だ。
どれにしようか。
これなら喜ぶかな。
甘いものは好きかな。
そう考えたかどうかは本人に聞かなければ分からない。
だから勝手に想像しすぎることはできない。
それでも、わざわざ自分に渡してくれたという事実は残る。
私はそこがうれしかった。
羊羹を食べている時間だけではない。
もらった瞬間から、すでにおいしさが始まっていたのかもしれない。
高級だからおいしかっただけ?
もちろん、もっと単純な説明もできる。
品質のいい羊羹だったからおいしかった。
それも間違いではないと思う。
材料や製法が違えば味は変わる。
普段食べているお菓子より上品な甘さだったら、
「これはおいしい」
と思うのは当然だ。
しかし今回、私が覚えているのは細かな味の分析ではない。
甘さが何点だった。
小豆の香りが何点だった。
食感が何点だった。
そんなことは覚えていない。
覚えているのは、
「彼女からもらった羊羹がおいしかった」
ということだ。
商品と人の記憶がセットになっている。
ここが面白い。
一人で食べるからこそ思い出す
もし大人数で食べていたら、また違ったかもしれない。
テレビがついている。
誰かが話している。
別のお菓子も並んでいる。
そういう状況なら、羊羹だけに集中しなかっただろう。
でも一人だった。
静かな時間だった。
一口食べる。
お茶を飲む。
また一口食べる。
その間に考える時間がある。
「彼女、今どうしているかな」
そんなことまで頭に浮かぶ。
一人で食べるということは、単に一人分の食事をすることではない。
食べながら自分の記憶と向き合う時間でもある。
SoloEatを書いていると、そこが面白いと思う。
食べ終わるのが少し惜しかった
普通のお菓子なら、おいしければどんどん食べる。
もう一個。
もう一切れ。
そんな感じだ。
しかし彼女からもらった羊羹は、少し違った。
食べれば当然なくなる。
当たり前だ。
でも、その当たり前が少し惜しい。
最後の一切れになる。
これを食べたら終わり。
そう思う。
羊羹がなくなるだけなのに、彼女からもらったものが一つ消えてしまうような感覚があった。
だからゆっくり食べたくなる。
食べ物なのだから、食べるためにもらったものだ。
それでも、
「もう少し残しておきたい」
と思う。
食べ物に思い出がくっつくと、こういう変な感情が生まれる。
思い出は食べ終わっても残った
結局、羊羹はなくなった。
食べ物だから当然だ。
箱もいつまでも取っておくわけではない。
でも不思議なことに、記憶は残った。
今でも、
「彼女から羊羹をもらったな」
と思い出せる。
むしろ羊羹そのものより、そのとき感じたことのほうが長く残っている。
これは食べ物の面白いところだと思う。
形はなくなる。
でも記憶は残る。
昔食べたラーメン。
初めて行った焼肉。
デートで飲んだコーヒー。
誰かにもらったお菓子。
味の細部を忘れても、
「おいしかった」
という感情だけが何年も残ることがある。
好きな人と食べるとおいしくなるのと似ている
よく、
「好きな人と食べると何でもおいしい」
と言う。
本当に何でもおいしくなるかは分からない。
でも、言いたいことは分かる。
食事には味覚以外の情報が大量に入っている。
誰と食べたか。
どこで食べたか。
そのときどんな気分だったか。
それによって記憶の残り方まで変わる。
今回の羊羹は彼女と一緒に食べたわけではない。
それでも、
「彼女からもらった」
という情報があった。
だから一人で食べても、彼女との時間の延長のように感じたのかもしれない。
もし自分で同じ羊羹を買ったら?
今、自分で同じ羊羹を買って食べたらどうだろう。
きっとおいしい。
商品としてのおいしさは変わらない。
むしろ落ち着いて味わえば、
「こんな味だったのか」
と新しく気づくこともあるだろう。
でも、あのときと完全に同じ味にはならない気がする。
舌の上の味ではなく、気持ちの部分が違うからだ。
あのときの羊羹には、
彼女からもらったという出来事があった。
その日の自分がいた。
そのときの二人の関係があった。
それら全部をもう一度再現することはできない。
だから、
同じ商品を買えても、同じ「おいしさ」は買えない。
そんな気がする。
一人飯にも誰かの記憶が入っている
SoloEatというと、
「一人で何を食べるか」
に目が向く。
一人ラーメン。
一人焼肉。
一人寿司。
コンビニ飯。
自炊。
でも、一人で食べているからといって、頭の中まで一人とは限らない。
昔一緒に食べた人を思い出す。
誰かにもらったものを食べる。
家族が作ってくれた料理を再現する。
恋人と行った店の味を思い出す。
そう考えると、一人飯の中にも人とのつながりが残っている。
彼女からもらった羊羹も、私にとってはそんな食べ物だった。
結論|羊羹がおいしかったのか、思い出がおいしかったのか
彼女からもらった羊羹は、なぜいつもよりおいしかったのか。
もちろん、羊羹そのものがおいしかった。
それが大前提だ。
でも、それだけではなかったと思う。
彼女からもらったこと。
自分のために渡してくれたこと。
一人で食べながら彼女を思い出したこと。
食べ終わるのが少し惜しかったこと。
それら全部が、羊羹の味に重なった。
だから私は、
「いつもよりおいしい」
と感じたのだろう。
食べ物はなくなる。
羊羹なら、最後の一切れを食べれば終わる。
でも、そのとき感じたことまでなくなるわけではない。
何年かたっても、ふと羊羹を見たときに思い出すことがある。
「あのとき、彼女からもらった羊羹はおいしかったな」
それはもう単なる味の記憶ではない。
誰かを好きだった時間まで含めた、私だけの味なのだと思う。


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