ドラゴンボールで食に関して最も豪快なキャラと言えば悟空だろう。大皿を山のように積み上げ、茶碗を片手に豪快に肉を頬張る。一方、同じサイヤ人でありながらベジータの食事シーンは少し種類が違う。彼は「大食い」ではあるものの、どこか孤独で、ひとり飯の空気をまとっているのだ。
たとえば初登場シーン。惑星を滅ぼし、宇宙船に戻ったベジータは、ナッパとともに肉を噛みちぎるように食べる。これは共同食事というより、戦士がただ体力を補給するための行為。そこに温度のある「食卓」の雰囲気はほとんどない。食べるという行為に情緒的な意味を持たせず、**「戦闘の燃料」**として淡々と処理している印象だ。
その後、地球に来てブルマ家に居候し、カプセルコーポレーションのテーブルで食事を取ることになるが、それでも初期の彼は輪の中心にはいない。悟空や悟飯がワイワイ食べる横で、無表情に黙々と皿を空けていく。まるで修行の延長のような飯。食事すら闘いの一部。彼は誰とも会話せず、視線は皿かテレビか、それとも遠くの強者に向いている。
ベジータがひとり飯に見える理由は単に「一人で座っているから」ではない。
重要なのは 精神の姿勢 だ。
・群れず
・頼らず
・他人のペースに合わせない
このスタンスが、食卓にもそのまま現れている。「満腹になるために食う」のではなく、「強くなるために食う」。それは筋トレ民にとっての鶏胸肉、ボディビルダーにとってのプロテインに近い。食事は味や楽しみより、目的に直結する作業である。
とはいえ、物語が進むにつれて変化が訪れる。ビルス編でのパーティーでは、ベジータはカプセルコーポレーションの庭で料理を摘み、微妙に群れの中に存在するようになる。昔の孤独なサイヤ人なら絶対しなかったはずだ。さらには家族と食卓を囲む姿も描かれる。悟天とトランクスが喧嘩しながら食べる横で、苦笑しながら口を付ける場面もある。少しずつ、人間の食卓に馴染み始めている。
だが、その変化があるからこそ初期ベジータの「ひとり飯」感は際立つ。
皿の上の肉を一切れずつ噛み砕き、誰にも心を開かない。誰かと食べることは弱さ、と感じていたのかもしれない。孤独こそが強さの証明。しかし、強さを求め続けた末に、家族と食事を共にする温度を知る。そこには「食=燃料」から「食=生活」への変化がある。
SoloEatの視点で見ると、ベジータはまさにひとり飯経験者だ。
外食のテーブルに一人で座り、ラーメンをすする背中と重なる瞬間がある。
誰にも話しかけられたくない日。食事は会話ではなく、自分を整える時間。
腹を満たすのではなく、心を保つ儀式。
ベジータはずっと戦ってきた。誇りと敵と、そして過去の自分と。
そんな男が一人で食事をしているとき、その皿には静かな戦闘がある。
だけど、トランクスを抱え、家族と食卓を囲む未来の彼は、もう完全な孤独ではない。
ひとりで食べる時間も悪くない。
誰かと食べる時間も悪くない。
ベジータはそれを作品の中で教えてくれる。
サイヤ人の王子でさえ、飯を通して変わるのだ。


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