七面鳥をさばく光景なんて、普通の家庭ではまずお目にかかれない。けれど、私が子どもの頃に体験したあの日は、今でも鮮明に覚えている。親戚のおじさまは電気工事士で、無骨で手際がよく、どこか職人気質な人だった。現場で培われた段取り力と判断力が、そのまま台所にも現れていた。まな板に七面鳥を置いたときのズシッとした重み、金属のボウルに響く包丁の音、あの緊張感。料理というより、一つの「作業」や「儀式」を見ているようだった。
まずおじさまは、余計な羽根や内臓をすばやく処理し、まるで工事現場のような流れる動きで分解していった。私は横でじっと見つめながら、ただただ「すごいな」と思っていた。大人が本気で料理をすると、こんなに迫力があるものなんだと知ったのは、この日が最初だった。七面鳥は鶏肉より大きく、扱いも大変だ。けれどおじさまは迷いがない。包丁の刃が骨の間を通るときの音さえ、どこか職人のリズムを感じました。
調理方法はシンプルだった。下味は塩と胡椒と少しのにんにく。オーブンに入る前の肉の色は赤みが強く、生々しくて、少し怖かった。でも時間が経つと、台所いっぱいに広がる香ばしい脂の香りが、恐怖心を胃の奥へと押し込んでくれた。「美味しそう」という気持ちに気づいた時には、もう焼き目が綺麗についていた。皮はパリッと膨らみ、肉は照りを帯びていた。
出来上がった七面鳥を家族みんなで囲んだ。ナイフを入れると肉汁が溢れ、白い湯気と一緒に香りが立ち上がる。口に入れた瞬間、鶏肉よりも濃厚で深い旨味が舌に広がった。硬いのかと思っていたが、意外にも柔らかい。噛むと脂の甘みとスモーキーな香りが合わさり、ゆっくり時間をかけて育った動物の命を食べている実感があった。子どもながらに忘れられない味。
今、改めて思う。七面鳥をさばくというのは簡単ではない。スーパーでパックを買う時代では体験できない、生の台所の迫力。そして、親戚のおじさまが職人として積み上げた経験が、料理にも活きていたこと。私にとって、あの日の七面鳥はただの食事以上だった。「命をいただく」ということを、食卓で体験した瞬間だった。
あれから年月が経ち、コンビニ飯やチェーン店で気軽に食事ができる時代になった。それでも、七面鳥の香りと湯気、そして家族の笑顔は、今でも心の奥で温かく残っている。たまには手間をかけた料理もいい。いつか自分の手で、あのおじさまのように七面鳥を焼いてみたい。そう思わせてくれる食の記憶だった。


コメント