子どもの頃、妹が3歳のときに起きたある出来事を、今でも鮮明に覚えている。
庭にできた小さな水たまり。その水を妹が両手で掬って、ごくりと飲んだのだ。
大人からすればありえない行動だが、当時の妹にとっては“飲み物”として見えたのだろう。
その瞬間、家族全員が驚き、母は「やめなさい!」と慌てて駆け寄った。
だけど妹はその意味もわからず、少し不満そうに母を見上げていた。
あの日から、私は“食べること・飲むこと”がどれだけ本能に近い行為なのかを考えるようになった。
人は生まれてからしばらく、世界を味覚で確かめる。
石も、砂も、落ち葉も。
「口に入れてみる」という行動は、好奇心そのものだ。
妹の水たまり事件も、まさにその延長線だった。
当時はただ驚くだけだったが、今思えば子どもの“無垢な食行動”がよくあらわれていた。
お腹が空いたわけでもない。
喉が渇いたわけでもない。
ただ 「そこに水があったから飲んだ」 のだ。
大人になれば絶対にしないことを、子どもは迷いなくやってしまう。
その自由さが、どこか羨ましいようにも感じる。
母はすぐに妹の口を拭き、「ばい菌がいっぱいなのよ」と言った。
しかし妹はその“ばい菌”という言葉の意味さえ理解していなかった。
世界を知らないからこそ、怖さも知らない。
でもその分、驚くほど大胆な行動をとる。
私はそのとき、初めて“食べ物の安全”を意識した。
普段当たり前のように飲んでいる水が、どれだけきれいで、どれだけ管理されているのか。
大人になればそれが理解できるが、3歳の世界には境界線がない。
水は水。
飲めるかどうかの判断は、匂いや色や雰囲気だけ。
それがある意味、とても自然で、そして危うい。
今でもソロ飯をしていると、ふとあの日のことを思い出すことがある。
私たちは食べるとき、いろんな判断を知らず知らずしている。
この肉は火が通っているか。
この魚は新鮮か。
保存は大丈夫か。
子どもの頃はそんな判断とは無縁だったのに、いつの間にか安全を考えながら食べるようになっている。
妹はその後も元気に育ち、いまでは笑い話だ。
「水たまりの水なんて飲んだっけ?」と本人は覚えていない。
だけど私の中では、食べること・飲むことの“入り口”を見た重要な記憶だ。
人は食べることで成長し、失敗し、学んでいく。
そんな当たり前のことを思い出させてくれた出来事だった。
ソロ飯をしているとき、食べ物に集中できるからこそ、自分の感覚がよくわかる。
大人の食事は慎重で、安全で、計算されている。
でもその奥には、子どもの頃の無邪気な好奇心が必ず潜んでいる。
食べることは本能であり、学びであり、記憶でもあるのだ。
庭の水たまりを飲んだ妹の姿は、今では私の中で
「人は食で世界を知る」
という象徴のような場面になっている。


コメント