今思い返すと、自分でも「なんでそんなことしてたんだ」と笑ってしまう。でも当時の僕(私)は、本気でそうするしかなかったのだ。
——信用金庫のトイレで昼飯を食っていた時期がある。
あれは働き始めて間もない頃。新人で、まだ職場に馴染めていなかった。昼休憩といっても、先輩方は当たり前のように輪を作って談笑しながら弁当を広げる。僕はそこに入る勇気が足りなかった。話題も合わない。会話のテンポもつかめない。
「一緒に食べる?」と言われるのを待ってしまう自分。言われなくて、さらに居心地が悪くなる自分。
その結果、選んだ場所がトイレの個室だった。
もちろん、今の自分なら絶対にしない。衛生的にもおすすめはしない。でも、当時の僕にとっては、誰からも見られず、何も気にせずにご飯を口に運べる唯一の場所だった。
コンビニのおにぎりとカップ味噌汁。袋を開ける音が響かないよう、ゆっくり開封して。
水洗の音で味噌汁の湯気が揺れる。今思えば、なんとも不思議な光景だ。でも、その10〜15分が心を守っていた。
職場にはいい人もいた。でも「気を遣う時間」から逃げたかった。誰かと食べる食事が苦痛な時期もある。
ソロ飯は、弱さの象徴じゃなく、生き延びるための選択だった。
あれから年月が経ち、今は好きな店にひとりで堂々と入る。焼肉も、ラーメンも、カフェも。
南大門ホルモン館でひとり焼肉をしたあの日みたいに、自由に味わえるようになった。
かつては視線から逃げていた自分が、今は「ひとり時間こそ贅沢」と感じるようになった。
人は変われる。環境も、価値観も、食べ方も。
思い返せば、トイレ飯にも意味はあった。
恥ずかしい過去じゃなく、ソロ飯の原点だ。
「ひとりでも美味しいものを食べていい」「自分のペースを大事にしていい」
その感覚を教えてくれたのかもしれない。
もし今、誰かが休憩室に入れずにトイレで飯を食っているなら、そっと伝えたい。
その行為自体を否定しない。でも、世界はもっと広い。
一人で食べられる店は山ほどある。
カウンター席はあなたの味方だ。
少しずつ勇気を出してみよう。最初の一歩は昼休みに外へ出ることでもいい。
ソロ飯は孤独ではなく、自分を守り、自分と向き合う時間だ。
信用金庫のトイレで、おにぎりを噛みしめていたあの頃の僕へ。
今の私は外で堂々と食べてるぞ。
大丈夫、世界は案外優しい。


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