幼い頃、ドラゴンボールのビデオを見ていた時の、忘れられない強烈なシーンがある。サイヤ人編より前、地球に来る前のベジータとナッパが登場する場面だ。惑星を蹂躙し、ほぼ抵抗も許さず文明そのものを灰にした後、二人は宇宙船で余裕の休憩をとる。そこまでは「悪役の登場」として王道なのだが――僕の記憶に最も深く刻まれたのは、その後のワンカットだった。
そう、「宇宙人の足」を食べている。
文字にするとすごいインパクトだが、当時の僕はテレビの前で固まった。「え、足?人間の?宇宙人の?なんで?食べ物として??」と理解が追いつかない。食卓でも「いただきます」が当たり前だった少年にとって、他者の足を食うという行為はあまりにも衝撃的だった。
実際の描写は、コミカルでありながら凶悪。ベジータは足をかじりながら、まるでジャーキーでも噛むような軽さで話す。僕の脳内ではあの場面が「ソロ食の対極」の象徴になった。牧歌的な食卓でもなく、ひとり飯の静かな幸福でもない。むしろ「力で奪った食料を乱暴に食べる」。倫理より生存、味より征服。食がこんなにも野蛮でプリミティブになることを、ドラゴンボールは子供の僕に突き付けた。
ではかじられていた足の正体は何だったのか。コミック・アニメ描写から考察すると、それはベジータ達が滅ぼした惑星の住民であり、種族としては人型の異星人。肉質は地球の哺乳類に似た質感で、ベジータたちの生態=サイヤ人は「食事をエネルギーと回復の手段として摂る」ため、料理という行為は省略されている。もちろん倫理的にはアウトだが、宇宙を舞台にした物語では「食=文明の差」を表す演出でもある。
僕はあのシーンから「食べるとはなにか?」を考えるようになった。SoloEatでカレーを食べる、吉野家で牛丼をかきこむ、誰かとテーブルを囲む――その平和さは当たり前ではない。弱肉強食世界なら食料は自ら奪い、料理されずにそのまま胃に入ることもある。つまり食は文化であり、秩序であり、文明そのものだ。
そう思うと、ベジータの足かじりは「宇宙規模の無法」を象徴している。一杯のうどん、一つのハンバーグを前に「いただきます」と思える今の世界はなんと幸せか。SoloEatでテーブルに座り、スマホで写真を撮り、感想を書き、ラーメンの湯気を眺める――それらが全部、文明の恩恵だ。
もし当時の僕に声をかけられるならこう言う。
「恐ろしく見えるけど、食は価値観そのものだよ。ベジータは強さを尊ぶ種族、だから食べ方も残酷になる。でも君は平和に生きている。だからこそ、食を味わえる。」
漫画のワンシーンが、30年後の今でも忘れられない。食べ物はただの燃料じゃない。記憶、価値観、文化、そして人生。僕たちは今日も、誰かを傷つけずにラーメンをすする。ベジータの足かじりを思い出しながら。


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