仲間外れにされた親戚の集まりから離れて、ひとりで食べたご飯の温度

Solo Eating Out(ひとり外食)

親戚が集まる日の空気は、いつも独特だ。
たまにしか顔を合わせないはずなのに、
昔からの関係性や上下関係の「続きを見る」ような感覚がある。
この日も例外ではなかった。

親戚のおじさんは、昔から少し癖のあるタイプだった。
悪い人ではないけれど、誰かを軽くいじることで
自分の居場所を保つようなところがある。
そして今回は、その矛先が自分に向いた。

最初は冗談めいたやり取りだった。
でも、笑っていればその場が丸く収まることを
長年の経験で知っているから、とりあえず笑っておいた。
しかし、何度も何度も小さなからかいが続くうちに、
その輪の中に「自分だけが入れていない」ような空気が
ゆっくりと形になっていくのを感じた。

誰かが助け舟を出すわけでもない。
誰かが話題を変えてくれるわけでもない。
ただ、そこにいないかのように扱われる瞬間が
だんだん増えていく。

心が少しずつ冷えていく。
自分が“場のついで扱い”になっていくような、
あの独特の感覚。

その瞬間、ふとモヤモヤが体の奥から湧きあがってきた。
耐えられないほどではないけれど、
このままここに座り続けても、
心の体力だけが奪われていくのは分かっていた。

だから席を立った。
「ちょっと散歩してくるね」と軽く言って、
親戚の輪から離れた。

外の空気は、驚くほど澄んでいた。
さっきまでの雑音が遠ざかり、
自分の呼吸だけが静かに戻ってくる。
スマホを見ると近くに軽食があるらしい。
そのまま足を向けて、ひとりで店に入った。

席に座り、注文を終えた瞬間、
胸のあたりがふっと軽くなった。
誰にも気を使わなくていい。
誰かの表情を読まなくていい。
誰かの機嫌を伺わなくていい。
ただ、ご飯を待つだけの時間。

料理が運ばれてきて、
ひと口食べたら、それだけで緊張がほどけていく。
親戚の輪で「居場所がない」と感じた心が、
ゆっくりと自分の場所に戻ってくる感じ。

“ああ、今日の自分にはこれが必要だったんだ”
そう思った。

ひとりでご飯を食べるのは、
寂しさじゃなくて、回復だった。
誰かの気まぐれな言葉で自分を傷つけないための、
小さなシェルターみたいなもの。

大人になってから気づいたけれど、
「距離を置く」という選択は弱さじゃない。
むしろ、自分を守るための大事なスキルだと思う。

親戚の輪は戻ればまたある。
でも、無理してその中にい続けなくてもいい。
ひとりでいる時間は、自分を取り戻すために必要な時間だから。

ひとり飯の帰り道、
風が少しだけやわらかく感じた。
傷ついた心は、結局自分で癒すしかない。
でもその方法のひとつが、こういうささやかな“逃げ場”なんだと思う。

あの日ひとりで食べたご飯は、
ただの食事以上の意味を持っていた。
それは、誰にも奪われない「自分の時間」だった。

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